Never Too Late

written by あお〜




結婚招待状の出席に○をつけてから、何度も何度も、しようと思っていた。

でも、私にはそれだけの勇気と度胸がなくて、できなかった。


今日が最後のチャンス。受話器を取った。

それでも本人に電話するだけの心の準備がなかったので、水城さんに伝言を頼んだ。



これで、後戻りはできない。


明日は結婚式・・。











「失礼します」

入れたてのブルーマウンテンをトレーに乗せ、水城が社長室に入ってくる。


「真澄様、明日はご自分の結婚式でございますでしょう?それなのに、こんな夜遅くまでお仕事

ですか?」

真澄は、書類から目を離さないまま、水城が出してくれたブルーマウンテンを一口すすり、自嘲気味

につぶやく。


「結婚式・・か。結婚式と言うより、会社同士の合併式と言ったほうがよさそうだがな。俺より、親父の

ほうが嬉しいだろうさ」

当初、マヤへの想いを心の奥底に閉じ込めたまま、紫織と結婚することにどうしようもない嫌悪感が

あった。

マヤに気持ちを伝えるべきか、と幾度も自分自身に尋ねた。だが、いくつものしがらみに縛られ、答え

を出せぬまま、時間だけが過ぎて行った。

そのうち、結婚式が近づくにつれ、もうどうにでもなれ!という気持ちになっていた。今日も紫織が

訪ねてきて、明日のことを楽しそうに話していったが、適当に相槌を打って、会議があるから、と早々

に帰した。


「会社にとってプラスになる方ですものね。大都社員にとっては喜ばしいことです」

わざとらしく「大都社員」という言葉を使った水城を、なにが言いたい、というような目でちらっと見、

真澄は書類の続きを読む。

彼がマヤを愛していること、また、少なくともマヤも真澄を嫌ってはいないことを知っている水城は、

このままでいいのですか?と何度も、尻を引っぱたいてみた。結婚式前夜だというのに、いっこうに

変わることのない真澄を見て、やれやれ、と軽くため息をつき、これが正真正銘の最後だわ、と爆弾

を落とした。


「真澄様、ただ今、マヤちゃんから電話がありまして、今からこちらへ来るそうです。そうですね、あと

10分くらいというところでしょうか。お仕事の邪魔になるようでしたら、追い返しますが、どうなさい

ますか?」


「なんだって?!」

速水の心臓がどくんと鳴る。水城はほんの少しだが、真澄の口元がほころぶのを見逃さなかった。

答えは、聞かなくともわかっているが、再度、問う。


「追い返しますか?」


「いや・・。会うことにしよう。紅天女のことでなにかあるのかもしれない」

何事もなかったのかのようにポーカーフェイスで答える真澄を見て、水城は、今度こそ上手く行きます

ように、と心の中で願い、承知しました、と社長室を出た。




見事、紅天女の後継者となったマヤだが、所属事務所をじっくり検討したい、月影先生の名に

恥じないよう更に紅天女を勉強したい、との理由で本公演の延期を申し出ていた。その間は、

ちょこちょこと仲間の芝居に顔を出したりしていたが、4ヶ月経った今も、まだ所属事務所は決まって

いない。もちろん、大都芸能も獲得に乗り出している。


マヤが来る・・・。

真澄は水城の伝言を頭の中で繰り返す。先ほどまでの読みかけの書類があったが、内容が全く頭に

入らない。大きく深呼吸をし、ギシリと音を立ててイスを反対に回して、窓の外を眺める。


最後に、マヤと会ったのは、紅天女後継者発表パーティーだった。薄紫色のふわりとしたドレスに身を

包み、彼女は会場に現れた。長い黒い髪はアップにされ、見えるうなじ、華奢な肩、ネックレスが光る

鎖骨・・どれもがまぶしく、ほのかに色気を漂わせていた。


自分が後継者と発表された時のマヤの表情。今でもはっきり思い出せる。ただでさえ大きな目を

これ以上ないというほど大きく開き、口をパクパクさせていた。しばらくしてやっと驚きが治まったのか、

今度はとびっきりの笑顔に変わった。

その時にちらりと目が合ったような気がしたが、勘違いだったのだろうか。


俺はみんながマヤに注目していることを幸いにずっとマヤを見ていた。おめでとう、と心から祝福し、

拍手を送った。

マヤのその笑顔を一生忘れないように、目に焼き付けた。とても美しかった。


後継者発表後、紫織さんが俺に相談もなく、結婚招待状を送ってしまった。じわりじわりと近づくその

日が恐ろしくてたまらず、迷いを振り切るため、現実逃避をするように、普段以上に仕事を増やし、

なるだけ彼女との時間ができないようにスケジュールを組んだ。

しかし、鷹宮家からの頼みもあり、時折、仕方なしに食事だけのデートへ出かけた。

その後、プライベートマンションに帰ってくると、どっと疲れが出てくるのが分かる。

軽く酒を煽ってベッドに潜りこむが、そんな時、決まってマヤと一夜を過ごした社務所の夢を見た。


何度、自分の気持ちをマヤに告げようと思ったか。結婚する前に、一度だけでも、マヤに偽りのない、

本当の自分を見てもらいたかった。


だが・・・


出来なかった。怖かった。更に嫌われると思った。マヤに拒絶されるのを恐れていた。それは、自分の

気持ちを伝えられないことより、痛く苦しい。

その結果、明日、俺は会社のために結婚する。


結婚・・・いつかマヤにもそんな日が来るのだろうか。そのとき、俺はどうなってしまう?彼女に好きな

人がいるってだけで、気が狂いそうだったんだ。

・・・耐えられそうにないな・・・。



真澄は、結婚間近だというのに、自分の妻ではない女性を束縛しようと言う、自分の身勝手さと

嫉妬心の強さにあきれ、苦笑いする。そして、この想いは一生消えることがなく、更に強いものになる

だろうという予感がする。 ビジネスのため、芸能社社長と女優として会えるよう、マヤが来る前に少し

でも気持ちを落ち着かせようとタバコを1本、取り出す。その時、社長室のドアがノックされ、マヤを

連れた水城が入ってきた。


「社長、マヤちゃんがいらっしゃいました。さ、マヤちゃん。今、紅茶を持ってくるわね」

水城が出て行く。

真澄は一度出したタバコをしまい、何度来てもこの雰囲気になれないのか、いづらそうにしているマヤ

をソファに座るように促す。


久しぶりに見たマヤは、幾分緊張しているようだ。

ちょこんと大きな革張りのソファに座り、小さなさくらんぼ色の唇をぎゅっと結んでいる。

下を向いているが、瞳がキョロキョロと落ち着きない様子だ。

真澄はマヤの正面に腰を下ろすと、自分の動揺を隠すために、わざとおどけた口調で言った。


「天女様は夜更かしだな」


「・・・あ、あの、えっと。ごめんなさい、こんな時間に。お仕事、してらしたんですよね?あの、気に

しないで続けてください。終わってからでいいです。・・待ちます」


「いや、急ぎの仕事じゃないんだ。心配するな」


マヤ・・。君は初めて会った時から変わってない。今やこの世界では上に立つものがいないほどの

実力者、そして、紅天女の後継者だというのに、自分のことより相手のことを優先する性格はそのまま

だ。そんな些細な事すらも、俺を惹きつける事を知っているか・・?


「で、今夜はどうしたんだ?大都に所属することに決めた、という嬉しいニュースでも持ってきてくれた

のか?」


「・・・はい」


「・・・・」

冗談で言ったつもりだったのに、マヤの返事は予想外だった。もちろん、そうなるようにマヤと交渉を

続けてきたのだが・・。

しかし、真澄はマヤに一体どういう心境の変化があったのか、そっちの方が気になり手放しで喜ぶ

ことができない。


「それは結構なことだな。・・・なぜ、大都を選んだんだ?」


「あの・・、私が大都に所属する代わりに、速水さんにお願いがあるんです」

真澄の質問には答えず、そう言って、真澄を見つめるマヤの瞳にはいつもと違う強い光が宿っていた。

不意をつかれて、真澄はたじろぐ。一心に真澄を見つめながらも、戸惑いと色気を漂わせる潤んだ

マヤの目に、ただ圧倒され、目を放すことができないでいた。


マヤの熱のこもった眼差しを受け止め、心がかき乱される。しかし、ざわめきが大きくなるのと同時に、

ずっと求めていた自分の居場所を見つけたような、穏やかな気持ちになる。懐かしい空間がそこに

広がる。遠いような、それでいてちょっと手を伸ばせば届いてしまうような、そんな距離。2人が欲して

いるものは、すぐそこにあるのに、うかつに触ってはいけない気がする。以前に同じような気持ちを

味わった事がある。

かすんで見える赤いもの・・・梅?そうか、梅の谷。

あの日、マヤの心と触れ合った気がした。


・・・マヤも俺と同じ気持ちなのか・・と淡い期待をした・・。マヤ、なぜそんな目で俺を見る?

・・・もしかして・・俺の勘違いではなかったというのか・・?!


思いがけず、たどり着いてしまった結論に真澄が狼狽していると、突然、ドアがノックされて、水城が

紅茶を持って入ってきた。

梅の谷にいるような錯覚を覚えていた真澄は、2人の間の空気がさっと変化し、見慣れた社長室に

いる自分を不思議な気持ちで受け止めていた。そのなかで、マヤが一瞬、今まで見たことないほどの

切ない表情をしたのが、とても印象的だった。水城は紅茶を置くと、これで失礼いたします、と帰って

いった。

パタンと社長室に繋がる秘書室の扉が閉まる音がしたかと思うと、カツカツ・・というハイヒールの音も

やがて聞こえなくなった。


「・・・あの、お願いというのは・・」

止まってしまっていた2人の時間をスタートさせたのは、マヤだった。


「速水さん、明日、結婚式ですよね」


「・・ああ」


「それで・・1日早いんですが、しておきたいことがあって」


「しておきたいこと?」


「はい。私から目をそらさないで、聞いてくださいね」

マヤがゆっくりソファから立ち上がる。“がんばれ”と自分自身を応援し、静かに、ふぅ〜と一息つくと、

真澄の真正面に来た。


「速水さん。・・・紫のバラの人。ずっとずっと直接、お礼が言いたいと思っていました。私は、あなたが

居たから、くじけないで頑張ってこれました。  誰もいなくなって、一人ぼっちだと思ったとき、いつも

あなたが励まして、手を引いてくれた。あなたが私を信じてくれていた。・・・そして、とうとう紅天女を

手に入れることができました。今まで、どうもありがとうございました。・・・でも、もう、大丈夫。あなたの

助けは、いりません。自分ひとりでしっかり歩いていけます。これからは、奥様・・・紫織さんのために

時間を使ってあげてください。本当に・・・感謝しています!」


何度も何度も練習したセリフ。少し早口になってしまったけれど、最後の方は声が震えてしまったけれど、

上手くいった。

潤んでしまった目を隠すように、深く、深く頭を下げた。


真澄は、突然のマヤからの告白に動けずにいた。

・・・知って・・いたのか・・。どうやって?いつから?・・なにより、マヤは俺が紫のバラの人だと知って

いた、ということは、もう一つの事実を意味する。・・・もしかして・・。


マヤは顔を上げると、あとちょっと、と自分を励ます。


「本当は、結婚のお祝いと一緒に言うつもりだったんですけど、明日の結婚式に出席できそうにない

ので・・。お祝いだけは、明日、着くように渡しますね。紫のバラの人への感謝の言葉を聞いてもらう

ことと、このお祝いをもらってもらうことが、私が大都に所属する条件です」


えへへ、と無理に作り笑いをする。うん、良くやったよね。これで本当に終わり・・・。


それじゃあ、と言って帰ろうと後ろを向いた瞬間、真澄に腕を掴まれた。

予想だにしなかった出来事に、ドクリと心臓が壊れてしまいそうに高鳴る。体全体が脈打ってるようだ。

せっかくきちんと言えたのに、後はドアを開いて出て行くだけだったのに、外へ出たら思い切り泣こうと

思っていたのに・・・。

真澄に掴まれた腕が熱い。

このままじゃ、仮面が外れてしまう。


だめ・・!


そう思った瞬間、ぽとりと涙がこぼれた。



無意識にマヤの腕を掴んでいた。あのまま、マヤが自分の前から消えてしまう気がして、勝手に手が

伸びていた。

咄嗟にとってしまった行動に、真澄はうろたえる。

適当な言い訳でも言って、マヤの腕を放すべきだ、と冷静な自分は考える。しかし、マヤの告白から

導き出される、信じられないような事実がある。

それを俺は確かめるべきなのか・・。マヤの細い腕が震えている。一瞬、マヤが強い力で腕を引いた。

その瞬間、床に落ちた一粒の水滴。


「マヤ・・」

あきらめようと決めていた大好きな人・・・。いけない、いけない、と思うのに、涙は後から後から流れる。

止めることなど不可能だ。


速水さんにも気が付かれてしまった。

腕を振りほどこうと思えば、できたけれど・・・なぜか体が動かない。

震える声を抑えるように、一句一句、ゆっくりしゃべる。


「速水さん・・。腕、離してください。・・私、もう帰ります」


「泣いているじゃないか!なぜ泣いている?なにが君を悲しくさせる?」

マヤは弱々しく頭を横に振るだけで、何も言わない。


愛する人が泣いていても俺はなにもできないのか?

理由を聞くことすら出来ないのか?

そんなに俺を無力だと思っているのか?

俺が君の恋人だったら、きつく抱きしめて、慰めてやるのに-------。


そう思った瞬間、体は動いていた。マヤは自分の胸の中にいた。


急に腕を引っ張られ、体が倒れる。気が付くと大きな胸にもたれかかっていた。しっかりと真澄の腕で

支えられていた。くっついた耳から、トクントクンと心臓の音が聞こえる。くぐもった真澄の声と、いつもの

真澄の声が重なって聞こえる。


「・・紫のバラの人に贈ったあの台本。紅天女の台詞。・・・俺に届くと知っていて、俺に向けたもの

だったのか?」

口がカラカラに渇いていた。俺が紫のバラの人だと知っていた、ということは、常々、紫のバラの人が

好きと言っていたマヤも俺と同じ気持ちであるはずだ。しかし、もしかして、とんでもない間違いを犯して

いるのでは?という不安が思った以上に大きくて、いつもの自分の声より弱々しく、小さくなってしまった。

なさけない、と思ったが、どうしようもなかった。


マヤは何も答えない。ブォォ〜ンという空調の音と、時折パソコンのファンが回る音だけが聞こえる。

真澄は普段はすがったこともない神に対して、祈っていた。


頼む、そうであってくれ・・!





どのくらい時が過ぎたのだろうか。かすかだが、ワイシャツ越しにマヤがこくんと頷くのを感じた。

体中の血が一気に熱くなる。

嫌われていると思っていた。俺の願いは一生叶わないと思っていた。

あの時、社務所でお互いの気持ちがわかっていたら、マヤにこんなつらい思いをさせることもなかった

のに。

・・・明日は結婚式だ。

・・・もう、遅いのか?


真澄に腕を掴まれたと思ったら、抱きしめられた。早すぎる展開に、頭が真っ白になってしまった。

なにも考えられない。

聞かれた質問に、いくつか気のきいた言葉でもつけて返せれば、と思ったけれど、頷くのが精一杯

だった。


「マヤ・・俺は・・明日、結婚する・・・だが・・」

長年の思いが通じて、マヤが自分のことを好きだと言ってくれた。しかし、自分の置かれている状況で、

マヤに自分の気持ちをどう説明して良いものか・・。

真澄は言葉を選んで、ゆっくり慎重に話す。


「結婚」という言葉を真澄が口にした瞬間、マヤの頭に美しい顔をゆがめて泣いている紫織がフラッシュ

する。

夢見心地だったマヤはハッと我に返る。

・・ああ、私はなんてことをしてるの・・。紫織さん、ごめんなさい・・・!


「・・速水さん。明日は結婚式だっていうのに、夜遅くに・・あの、こんなこと、ごめんなさい。紫のバラの人

にお礼が言えて良かった!」

投げ捨てるように言って、真澄の腕を振り解く。今度こそ、決心が鈍らないよう、駆け足で社長室から

飛び出た。

後ろから真澄が、自分の名前を呼んでいるのが聞こえたが、振り返らなかった。







今日、私は真澄様と結婚する。


いろいろつらい思いをしてきたけれど、結婚してしまえば真澄様も変わってくれるに違いない。

どれだけ年月はかかろうとも、せめて愛してはくれなくとも、妻である私に情くらいは芽生えるだろう。

そんな小さなことでも構わない。

大好きな真澄様と一緒になれるのだから・・。

北島マヤ。あの子にだって、勝ってみせる。



支度を終えた紫織が、控え室で待っているとドアがノックされた。


「紫織さん、入るわよ」


「お母様」


「まあ、すっかり花嫁ね。きれいよ。・・・紫織さん、今だからお話しするけれど・・・私は初め、いくら

なんでも会社のために、あなたが好きでもない人と結婚するなんて、とお見合いのことはあまり乗り気

ではなかったのよ。鷹宮の名を背負っているから、耐えなければいけないこともたくさんあるでしょう

けど・・。でも・・・せめて結婚くらいは、あなたのことを大切に思ってくれる方として欲しいと思って

いたの。お見合いして、真澄さんと付き合っていく中で、あなたの笑顔を見て、安心したわ。あなたの

お話だと、とても良い方のようですしね。私も嬉しいわ。・・・紫織さん、幸せになるのよ」


紫織は真澄と出会ってからのことを考える。お見合いの日、まるで昔からの友達のように心置きなく話を

したこと、パーティーでダンスをしているとき、人目を気にする自分に、僕だけを見ていなさい、と言って

くれたこと、家に来て頭を下げて結婚の申し込みをしてくれたこと・・・そして・・・他に愛する人がいる、と

聞かされたときのこと・・・。


「・・・お母様・・・わたくし、わたくし・・・・」

泣き出してしまった紫織を見て、メイク係りが慌ててやってくる。



私の幸せ・・・ってなにかしら・・。お母様をだまして、自分をだまして生きていくこと・・?








真澄は昨夜の出来事が頭から離れなかった。結局、家にも帰らず、一睡もせず、社長室で夜明けを

迎えた。梅の谷で一夜を過ごした時よりも、鮮明にマヤの幻想が真澄を襲った。細くて折れそうな腕、

ふんわりとシャンプーの匂いがした髪、胸に押し付けられた小さな耳、そして・・・真澄の質問にコクン

と頷いたマヤ・・・。




式が始まる前、真澄宛に手紙が届いた。マヤからだった。


“紫のバラの人への感謝の言葉を聞いてもらうことと、このお祝いをもらってもらうことが、私が大都に

所属する条件です”


封筒を開く。ご結婚おめでとうございます、と書かれたカードと同封されていたのは、真澄個人の名に

書き換えられた紅天女の上演権だった。


書類を持つ真澄の手が震える。


この俺に上演権を託す、というのか。

お前が、誰よりも必死に頑張って、やっと掴んだ上演権を・・?


紅天女を手にした時の、マヤのとびっきりの笑顔が浮かんだ。

と、思ったら、真澄の腕を振り切って、泣きながら社長室を後にしたマヤの姿が浮かんだ。


心臓の辺りがズキズキ痛み、真澄は、くそっと小さく嘆いた。









余韻を残し、静かにパイプオルガンが鳴り止む。形だけの聖書を手に持ち、神父は手馴れた感じで

式を進めてゆく。


「・・・あなたはいかなる時でも、あなたの妻を愛することを誓いますか?」


「・・・・」

なにも答えない真澄を、神父は緊張していて頭が真っ白になってしまったのだろう、と勘違いし、

小声で名を呼び、次の手順を説明する。

それでも黙っている真澄をいぶかしげに思った紫織が再度、真澄の名を呼ぶ。


「真澄様・・どうなさいました?」

速水はその言葉にやっと顔を上げ、ぐるっと教会の中を見回す。


政略結婚。うわべだけの結婚式だ。「大都」と「鷹通」の合併を祝っているやつらはいるだろうが、

「速水真澄」と「鷹宮紫織」のことを祝っているのは、果たして何人いるのか。マヤのためと思って、

今まで会社に尽くしてきたが、愛する人が涙を流しているのに、拭うことも、理由を聞くこともできない

「社長」であるなら、俺にとって価値はない。俺が社長でいる必要がないなら、紫織さんも俺と結婚する

ことはない。・・・こんな簡単なことに気づくのに時間がかかりすぎた。遅すぎたかもしれない。だが、

これ以上、間違いを重ねないためにも、今、終わりにしよう。


真澄は紫織と向き合う。背筋を伸ばし、紫織の目を見つめ、穏やかに諭すように、話し始めた。


「紫織さん。あなたもご存知でしょうが、僕は、会社のためだけにあなたと結婚しようと思っていました。

逆に言えば、会社がなければ、「社長」という立場にいなければ、出会うこともなかった。今まで、

「社長」であるが故、身動きが取れなくて、あなたに散々ひどいことをしてしまいましたね。しかし、

僕はこのままでは、本当に愛する人が、悲しさ、つらさ、苦しさで、今すぐに押しつぶされそうになって

いても助けることができないとやっとわかりました。それならば、そこまでして「社長」にすがろうとは

思いません。この歳になって、初めて自分の幸せのために生きたいと思いました。愛する人の前では

自分の気持ちに正直でありたいと思いました。そして、紫織さん、あなたにも自分の幸せのために

生きてもらいたいのです・・・・あなたのことを心から愛してくれる人と一緒に、充実した人生を送って

もらいたい。長い間、僕の迷いのために、あなたの貴重な時間を無駄にしてしまったことをお詫びします。

けれど、あなたはまだ若い。必ず、やり直せると信じています」


紫織の目にはあふれんばかりの涙が溜まっている。心がチクリと痛んだが、同情の積み重ねで、

こんなにも糸が絡まってしまったのだ。真澄は、紫織を慰める代わりに、しっかりと目を見つめ、

ありがとう、と心から礼を言う。そして、神父のほうに向き直ると、はっきりとした口調で告げた。


「この結婚は取り消しにします」


初めは、静かに2人の様子を見守っていた参列者だか、徐々に青ざめていく紫織を見て、何かおかしい

と感じ、ボソボソと誰かれともなく、おしゃべりを始めた。壇上で真澄が紫織に向かって、話をしている

のは分かるものの、声が小さくて内容は把握できない。真澄が神父に向かって、何かを言うと、紫織が

泣き崩れた。一気に会場が騒がしくなる。駆けつけた紫織の両親に、真澄は丁寧に詫び、頭を下げた。

最後に紫織に向かって、深くお辞儀をすると、会場から出て行った。








真澄の結婚式の日、マヤは一人で梅の谷に来た。

月影千草は紅天女の後継者発表後、間もなく、静かに眠るように息を引きとり、今は源造が千草の墓を

守ってここに住んでいる。

その源造に世話になりながら、もう1週間も滞在していた。麗にだけは居場所を教えてある。マヤの

気持ちを知っていた麗は、思う存分ゆっくりしてきな、とやさしく笑って言った。マヤは、毎朝、源造と

一緒に掃除をし、朝食を取った後、千草の墓へ行くのが日課になっていた。


今日も、千草の墓の前でそっと手を合わせる。


「先生。あの人の結婚式から、もう1週間です。1週間経っても、まだ、忘れられない私が、速水さんの

結婚をお祝いできるわけがなかったですね。出席に○しちゃったけど・・。紫織さんと一緒の速水さんを

見る勇気がないんですよ。上演権のこと、ごめんなさい。何度、謝っても許してもらえないかな?なんにも

ない私に、紫のバラの人のためにできること、って言ったら、それしかなかったんです。・・・速水さん、今、

どうしてるのかな?

相変わらず、お仕事が忙しいんだろうなぁ。紫織さんと・・・幸せに暮らしているかなぁ?」


涙がぼろぼろあふれる。


「あ〜、また、泣いちゃった。もう、泣かないって決めたのに。まだまだ、だめみたいですねぇ、私」

引きつる顔で無理に笑おうとする。



と、背後から、ふんわり包まれた。

信じられない思いで、マヤは固まる。・・・誰だか、わかる。目の前で組まれた大きな手、頬にかかる

ゆるいウエーブがかった髪の毛、このタバコの匂い・・・。

会いたくって会いたくって、でも、会えなかった人。


「もう、泣くな」

その人が、耳の側で低い声で囁く。


「君を二度と泣かさない。俺のことで涙を流すな」


「速水さん!」


マヤはたまらず速水に抱きつく。速水もまた、マヤをきつくきつく抱きしめる。


「すまなかった。俺が君を泣かせていたんだな。つらかっただろう」

そう言うと、真澄はマヤを少しだけ解放し、マヤの頬に伝う涙を手でぬぐった。乱れてしまった髪を耳に

かけて、前髪を整えてやる。


「マヤ・・。俺は、もう少しで、重大なミスを犯すところだった。遅かったかもしれないが、直前で気が

付いたんだ。紫織さんとは、結婚しなかった」

その言葉にマヤは目を見張る。そんな・・・と言いかけたマヤを、真澄が遮る。


「すぐにでも、君に会いたかった。朝も夜も、ずっと君のことを考えていた。しかし、自分の身勝手で

会社に迷惑をかけたから、その穴を埋めて、胸を張って迎えに来ようと思ったんだ。まだ細かいところは

残っているが・・・1週間で、全てかたをつけてきたよ」

少し腰を落とし、目線をマヤと同じ高さにする。


「情けなくて、格好悪いが、ありきたりな言葉でしか、自分の気持ちを表せない。いいか?聞いて

くれるか?」

あの夜と同じように、マヤがコクンと頷く。


「鈍感で、優柔不断な俺だが、マヤ、誰よりも、君を大切に思っている。全力で君を守る。君を

・・・愛している」

最後の言葉を言い終えると同時に、マヤに口付ける。ゆっくり優しく、何度も何度も、口付けた。


「速水さん・・」

マヤが潤んだ目で、真澄を見上げる。


「・・・いいの?私で、いいの?後悔・・・しないの?」


「君じゃなかったら、俺が後悔する」

マヤを抱きしめ、今度は、先ほどとは比べ物にならないほどの、熱いキスを浴びせる。唇をなぞられ、

吸われ、口の中を真澄の舌が駆け巡り、かと思うと、舌を舌に絡めてくる。やっと唇を離され、マヤは

へたり込んでしまった。


ぼーっとしているマヤを見て、真澄がからかう。


「天女様には、ちょっと刺激が強すぎましたか?」


「は、は、は、速水さん!紅天女は聖なるものなんですっ!それなのに、それなのに・・」

真っ赤になって、しどろもどろに一生懸命、反撃してくるマヤを見て、真澄は微笑む。


「天女様にじゃなくて、北島マヤだったら、もっと刺激を与えてもいいですか?」


「速水さん!!な、何いってるんですかっ」


ははは、と梅の谷に速水の笑い声が響く。





この恋、していてよかった。

あきらめないでよかった。

あなたを愛していて・・・よかった。



吸い込まれそうな青空の下、マヤと真澄は歩き出す。

何度も離れそうになりながら、見失いそうになりながら、やっと見つけた、魂の片割れ。



もう、2つになることはない。これからは、ずっと1つ・・。





おわり






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