Oh My Little Girl! 

written by 真砂〜





人通りのほとんどない道を静かに歩く人影が一つ。

まだスズメの鳴き声すら聞こえてこない時刻だった。

あたりには、スクーターの動く音とブレーキ音、そしてカタン、カタン、とポストに新聞が押し込められる規則正しい音

だけが響いている。


(まだ5時前か。変な時間に帰ってきちゃったな)

腕時計に視線を落とし、青木麗は小さく息を吐いた。

正確には午前4時45分。

まだ薄暗いものの、漆黒の闇はすでに薄れ、空は少し白味を帯びた灰色に覆われていた。

暖かい陽射しに包まれるには、時間的にまだ早いようだ。

首元を掠めていく風に、麗は薄手のスプリングコートの襟を立てた。

今は5月。気候の良い季節とはいっても、さすがに早朝は肌寒い。


(あーあ、あたしとしたことが短気をおこしちゃったかな。でも、険悪なムードをまき散らすのは迷惑だしね……)

両手にぶらさげた紙袋をちらりと眺めてから、気を取り直して白百合荘を目指していく。

紙袋の中身は、着替え一式と結婚式の引出物である。

(そういや、引出物の中に有名な和菓子屋の紅白まんじゅうも入ってたな。硬くならないうちに、マヤと一緒に

食べよう)


本来なら今頃は、麗は都内のホテルで高いびきのはずだった。

従姉妹の結婚式に出席した後に一泊し、翌日新婚旅行に旅立つ新婚夫婦を見送ってから、日頃顔を合わせる

ことが少なくなった親戚一同と酒を酌み交わすことを約束させられていたのだ。

大切な従姉妹の新たな門出である。麗が結婚式に欠席するわけにはいかなかった。しかし、麗は、違う理由で

気が進まなかったのだ。

麗の従姉妹の結婚式……ということは麗の両親にとっては姪の結婚式ということになり、当然彼らも式には

出席する。つまり、青木親子は嫌でも式場で顔をあわせることになる。

しかし、娘が演劇で生計を立てることを良しとしない両親と麗の間には、かねてから深い溝があったのだ。

別に互いに憎しみあっているわけではないが、家族だからこそ素直に歩み寄れないのか、ひとたび掛け違えた

ボタンはなかなか元には戻らなかった。

従姉妹の華々しい席で、ぎくしゃくした雰囲気を見せてしまったら……。

麗にはそれが気がかりだったのだ。


とは言え、麗も両親も立派な大人で良識の持ち主である。大切な結婚式に水をさしたくない気持ちは同じだった。

互いに簡単な挨拶しか交わさなかったが、結婚式、披露宴、二次会、とつつがなくイベントを消化していく。

しかし、麗は急遽三次会と翌日の予定もキャンセルした。明日、代役として急に舞台に立たねばならなくなったから、

と真っ赤な嘘までついてしまった。

二次会三次会ともなれば、参加者は新郎新婦の気心の知れた友人たちや親戚たちばかりである。気の置けない

メンバーという条件に酒の力も手伝って、早くも二次会で、麗の両親の口から麗に対して棘のある言葉がこぼれそうに

なっていたのだ。

麗がここ最近女優として知名度が上がってきたことで、麗がこの場で触れてほしくないと思っている話題へと話が

進んでしまったこともまずかった。

分別ある冷静な麗とて人の子。売り言葉に買い言葉ということにもなりかねない。

しかし、そうなってしまっては、従姉妹夫婦に申し訳が立たなかった。

幸い、麗が雲行きの怪しさを感じ始めたときには、まわりはまだまだお祭り騒ぎムードに満ちていた。

しかし、これ以上はまずい。そう判断して、麗は予定を変更してその場を引きあげることに決めたのだ。


せっかく従姉妹が用意してくれたホテルにも泊まる気にならなかった。なにせ、隣室には両親が宿泊することになって

いたのだ。両親とじっくり話し合い、自分の夢を認めてもらいたい気持ちはある。しかし、今はまだ平行線でしかないと

いうことは、式場で両親と挨拶を交わした瞬間に感じ取ってしまっていた。

ならば、今は何も話すことはなかった。


そうして麗が三次会を切り上げたのは深夜だった。

両親との再会に少しばかり疲れていた麗は、すぐにアパートに帰る気も起こらず、ファミリーレストランで一人時間を

潰していた。

しかし、一人でいることにも疲れを感じた。土曜の深夜のファミリーレストランには多くの客の姿が見られたというのに、

奇妙な孤独感を覚えて仕方なかった。

そして麗は中途半端な時間にもかかわらず、結局アパートに帰ることにしたのだ。


麗は心身ともにタフだった。常に自分を見失わず、面倒見のよい姉御肌でもある。それは自他ともに認めているところだ。

しかし、そんな麗も、今夜は一人でいたくなかった。









「超」がつくほど安普請の白百合荘は、うぐいす張りの床かと思わせるほどにギシギシと軋んだ音を立てていた。

住人を起こさぬよう、細心の注意を払って歩いているにもかかわらず、だ。


そして部屋のノブに鍵を差し込み、ドアを開けた途端、麗はその場で固まってしまった。

見慣れた小さなスニーカーの隣に、高級感溢れる男物の黒い革靴を見つけてしまったからだ。


(…………)

しばらく逡巡したものの、麗は意を決して部屋の中に入った。

早く荷物を置きたいという気持ちがあったし、ここは麗の自宅なのだ。遠慮する必要などない。

そして数歩進んで、片手で額を押さえ、思わず目を背けた。そこには予想通りの光景が広がっていた。

一組の布団(もちろんマヤの布団である)で仲良く眠っているのは、マヤと、その恋人である某大会社の若社長である。

マヤは恋人の腕枕に頭を預け、彼の胸に頬をすり寄せるようにして、安心しきった様子で寝入っている。

そしてマヤの恋人――速水真澄も、凛々しいながらもどこか無防備な表情でマヤを抱え込むようにして眠っていた。

二人とも、眠りが深いのかそれともよほどお疲れなのか、目覚める様子は一向に見られなかった。

恋人たちは行儀良く布団をかけて眠っているのだが、首から肩、胸元、そして手足など、素肌が見え隠れしている。

目の毒だった。甘い猛毒にあてられた気分だった。


麗には下世話な出歯亀根性はない。むしろ今、目のやり場に困る……という心境だった。

それなのに……。

見てはいけない、と思いつつも、ついしげしげと速水を眺めてしまう麗だった。

冷血漢と言われる男の、滅多にお目にかかれない素顔を見た気がしたのだ。

速水は邪気のない寝顔をしていた。実年齢よりも若く見えて、いつもの、上に立つ者特有の凄味も感じられない。

警戒心の欠片もない、心底くつろいだ姿に見えた。


(しかし……よくもまぁ、こんな布団で眠れるもんだねぇ)

麗は妙な感心の仕方をしてしまう。もちろんこれはマヤのことではなく速水のことだ。

“あばら家で眠る王子様”

ふと、そんな言葉が浮かんできた。

マヤの布団はシングルサイズだった。しかも掛け敷き布団とも羽毛布団でもなく、スーパーの処分品バーゲンで

購入した粗末な品である。

枕も然り。羽毛ではなく安物の蕎麦殻枕だ。

小柄なマヤならともかく、長身の速水まで一緒に寝ているため、見た目にも狭っ苦しくて仕方がない。

実際、贅沢な暮らしをしている速水にとっては、お世辞にも寝心地の良い環境だとは言えないはずだった。

それなのに、速水は深い眠りに落ちている。

元来鋭敏な感覚の持ち主に違いないのに、侵入者の気配にも気づかずに、リラックスしきって……。

(隣にマヤが眠ってるから……なんだろうな)

速水にとって、マヤは安眠誘発剤か、はたまた人間抱き枕なのかもしれない、と思う麗だった。


(……それにしても……)

麗は口元を押さえて笑いを噛み殺した。マヤが、家族の旅行中にチャンスとばかりに彼氏を自宅に引き入れた、

おませな娘のように思えたのだ。

過去、麗の在宅不在にかかわらず、マヤが速水をこのアパートに上げたことはない。

二十歳を超え、恋人ができても、マヤが奥手だということは麗も承知しているため、マヤが邪な考えで速水を部屋に

入れたわけではないと分かってはいるのだ。

もしかしたら、麗の留守中にマヤの部屋に入りたがったのは、速水のほうなのかもしれない。

(ま、昨日の夜は一時的に集中豪雨があったから、速水社長もついつい帰りそびれちゃっただけかもしれないけどさ。

でもさぁ、どうしてよりにもよってうちでデートしようなんて思うかねぇ。壁だって薄いのにさ。変なカップルだよ)

自分で思ったことなのに、麗は思った後で、かあぁぁぁと赤くなった。

意味深なことをさらりと口走ってしまった自分が(実際には思っただけで口走ってはいないのだが)恥ずかしくなった

のだ。

麗は慌てて壁に視線を向けた。

そして、自分がまだ手荷物を抱えたままだということにようやく気が付いた。

とりあえず押入れの中に荷物をしまい込み、これからどうするべきか考える。

この部屋にはいられない……が、かと言ってどこに行けばいいのやら。

他の劇団員のアパートに行くのが妥当なところだが、さすがにこんな早朝に押しかけるのは気が引けた。

(またファミリーレストランに逆戻りか……)

結局は24時間営業のその手の店しか残されていないのだ。

そこはかとない脱力感を感じながら、麗が部屋を去ろうとしたときだった。

麗の眉がピクリと動いた。

布団の横には、マヤと真澄の衣服が乱雑に脱ぎ捨てられていた。違和感のある光景ではない、この状況ならば。

しかし。


(マヤのヤツ!)

麗には見過ごすことができなかった。

下着だけは(特に速水のだけは)視界に飛び込んでこないでくれよ……と切実に願いながら、麗は速水のスーツと

ワイシャツを手にとった。

スーツは形状が安定しているから良かったものの、ワイシャツには無数のシワができてしまっている。

(バカッ、なんでハンガーにかけとかないんだ。速水社長はお泊りセットなんか持ってきてないんだろっ。うちには

男物の着替えなんか置いてないんだからさ!)

麗はマヤの気の利かなさに呆れながら、スーツをハンガーにかけ、ほこりを払う。

ワイシャツを静かに伸ばしてみるが、シワはきれいにはならなかった。

(あーあ、こりゃダメだ)

麗は肩を落として、忍足でアイロンを用意した。

二人の目が覚めないかビクビクしながらアイロンを温め、丁寧にシャツのシワを消していく。もちろん、音のうるさい

スチームは使わない。

ついでとばかりに、散らばっていた服の中からマヤのブラウスとスカートを取り出し、同じくアイロンをかけた。

そして、きれいに服を折りたたみ、布団のそばに置いた。


(「よし、完璧!」と言いたいところだけど……)

一事が万事、こんな調子のマヤだ。他にも何か落とし穴がありそうな気がする。

麗は足音を忍ばせて台所へ足を運んだ。

年季の入った床板がギシギシと音を立てるが、二人はまだ夢の世界から帰ってこなかった。

そして、冷蔵庫を開けると――。

(やっぱり!)

卵や調味料は揃っているものの、目ぼしい食材は何もなかった。

もともと大きくない冷蔵庫が、やけに大きく目に映る。

とはいえ、全く何も残っていないわけではなく、肉やら野菜やらが細切れ程度で残っていた。

麗ならば、これらの残り物を使ってそれなりの料理ができる。しかし、マヤには無理だ。

炊飯器を開けてみても空だった。マヤたちが起きてから炊飯器を仕掛けても朝食には当然間に合わない。

それならば、とパンを探すが、それも見当たらない。

二人が目覚めた後、もしかしたら食事に出かけるつもりなのかもしれないが、朝っぱらからこの二人が仲良く食事を

しているのをマスコミにでも嗅ぎつけられたら、間違いなく騒動が起きるだろう。

(速水社長がここに泊まったということは、そろそろ二人の関係が漏れてもかまわないということなのかもしれない

けど…。でも、まだ本人たちが事を公にしてない以上は、やっぱウチで朝ご飯を食べたほうがいいに決まってるよ

なぁ…)


麗は水音に細心の注意を払いながら米を研ぎ始めた。

(マヤもこういう時こそ朝ご飯をバッチリ作ってポイントを稼がなきゃいけないのに。ったく、気が回らないんだから)

(……でも、待てよ。この場合、あたしがマヤに何も仕込んでないと思われるのかな。……それも癪かも……)

気分はすっかりマヤの母親である。

冷蔵庫の残り物で朝食を用意しておいてやろうと思っていた麗だったが、炊飯器に米を仕掛けてから手を止めた。

あまり過保護にしてはマヤのためにはならない。……かと言って、世話焼きの麗はこの状況を放っておくことも

できない。

しばらく考えて、麗は妥協案を見出した。マヤのレパートリー内で使えそうな食材だけ買い足しておいて、あとは

マヤに任せよう、という算段である。

幸い、最近近所に24時間営業のスーパーが開店したところだった。

(男ってやつは単純だから、お袋の味に弱いんだよな。ってことで、やっぱ和食だな。でも、速水社長は朝はパン派

かもしれないし、一応パンも用意しておくとして……。そうなると、コーヒーもいるな)

そして、いつだったかマヤが「速水さんはね、コーヒーにはこだわり派なの」と、麗が聞いてもいないことを嬉々として

話していたことを思い出す。

(銘柄、なんだっけ。ブルマン……だったかな。こだわり派と言われても、うちにはコーヒーメーカーなんてないし、

インスタントで我慢してもらわなきゃな〜。金持ちって面倒くさいよな。でもまあ、これもマヤの株を上げるためだ。

仕方ないか)

ブツブツ考え込みながら、麗は財布だけを持ってアパートを後にした。










麗が買い物を済ませ、白百合荘に戻ってきても、呑気な恋人たちはまだ眠りこんだままだった。

冷蔵庫に戦利品をしまい、念のためにしおりを挟んだ料理の本をさりげなく台所に置いておくことも忘れない。

速水のために買ってきたコーヒー、割り箸、ハブラシなども、棚にはしまわず、目に付きやすい場所に置いた。

(これでよし、と。マヤ、うまくやって、速水社長にいいとこ見せなよ)


時刻は午前6時になろうとしていた。

「劇団つきかげ」の仲間である、さやか、美奈、泰子は朝からアルバイトをしているため、そろそろ起き出してくる

頃だ。今、麗が部屋を訪ねて行っても許されるだろう。


清々しい充足感を感じて、麗が再び部屋に出ようとしたときだった。

「……くん……、ダメ…ダメよ……桜…小路くぅん……」

マヤがむにゃむにゃ言いながら寝返りを打ったのだ。


麗はぎょっとしてマヤを振り返った。

どこからどう見ても幸せな恋人たちの図なのに、マヤから漏れたのは恋人たちを破滅に導きかねない衝撃のセリフ

だった。

恋人の腕枕で眠りながら、他の男の名前を呼ぶなど。

恋人がいかに寛容な人間であっても、それをされたら面白くはないだろう。

嫉妬深い恋人であれば、いや、嫉妬深くなくても、修羅場になりかねないセリフだ。

麗はその場で凍りついてしまった。

そんな麗にはお構いなしに、マヤは少しだけ眉を寄せ、「ダメだったらぁ」などとしつこく口走っている。

実際にマヤがどんな夢を見ているのかは定かではなかったが……見方によっては、マヤの表情も声も悩ましげに

思えないでもない。


この状況はまずかった。非常にまずかった。

幸運にも速水はまだ目覚めていないが、マヤの寝言が止まらない限り、彼が目を覚ますのも時間の問題である。

動悸が激しくなって、麗は一人、青くなったり赤くなったりしていた。

(このバカバカバカバカバカバカバカバカ!)

麗は心の中で何十回も「バカ」を繰り返していた。

どんな夢を見ようが、実際にはマヤに責任があるわけではない。それは分かっているが、これを速水が耳にして

しまったら……。

想像すると恐ろしくなってしまう麗だった。

(こうなったら、速水社長が起きる前にこのバカ娘を叩き起こすしかない!!)

麗が実力行使に出ようとしたまさにそのとき――。

マヤの頬に一筋の涙が伝った。

驚いて麗はその場で動けなくなってしまった。


「あたしには速水さんしか愛せないの……。ダメなの…ごめん…桜小路君……ごめんなさい……」

そしてマヤは二度目の寝返りを打ち、その細い体は再び速水の腕の中にすっぽりと収まった。

そして、「ごめんなさい」と「ありがとう」を数回繰り返して、ようやくマヤの寝言はおさまった。


(…………)

マヤが今見ている、マヤ主演のメロドラマの内容は、麗にも朧気にも理解できた。

きっと今頃、夢の中で、桜小路優が「たとえ君に愛されなくても、僕は君の幸せを願い続けているよ……」

などと鳥肌がたちそうなくさいセリフを吐き、哀愁に満ちた目をそっと伏せ、マヤから遠ざかっていくところなのだろう。

そしてマヤは、去りゆく彼の背中を涙で見送っているに違いない。

すると今度はどうだ。今まで死んだように静かに眠っていた速水が、突然寝言を言い出したのだ。

「……マヤは俺が必ず幸せにすると約束する……」


「えっ!?」

麗は思わず叫んでしまった。そして、慌てて両手で口を押さえる。

マヤと速水が揃いも揃って同じ夢を見ているなんてあり得ない。あり得ないのに、速水の寝言はマヤの夢とたしかに

通じるものがあった。

速水を凝視してみるが、速水が目を覚ましている様子はなく、寝言もそれっきり途絶えてしまった。速水が発したのは

結局あの一言だけだった。

そして、いつまでたっても起きない二人は、実に幸せそうな微笑みを浮かべている。


(…………)

麗はポリポリと鼻の頭をかいた。

焦ってマヤを叩き起こそうとしていた自分のほうが、よっぽどバカのように思えてきた。

(マヤと速水社長とじゃ、でこぼこコンビだと思ってたけど……。なんのことはない、似たもの同士だったんだね。

……とんだバカップルだ)

女性などよりどりみどりのはずの速水。そんな彼がどうして演劇以外になんのとりえもない、ちっぽけな存在のマヤを

選んだのか。そして、マヤがどうして住む世界が全く違う速水を選んだのか。

麗は今さらながら、それが理解できたような気がした。

一見何一つ共通点のなさそうな二人なのに、心は確実に一つに繋がっているのだ。

決して揺るがない、神秘的な絆のようなものを感じ取れた。


(バカップルには違いないけど、ちょっと羨ましい気もするよ)

苦笑して、麗は再びスプリングコートを着込んだ。


(やれやれ……)

麗は何とも言えない疲れを感じていた。ほんの1時間かそこらの出来事だったのに、とても疲れた。

しかし、後を引くような疲れではなかった。それどころか、無事に仕事をやり遂げた後のような、心地よい疲労感を

感じていた。両親との確執に疲れていたときの気持ちとは全く違う。ほんの数時間前に感じていた、あの淀んだ

気持ちもすっかり浄化されてしまっていた。

両親と麗との間の溝は何も変わっていないというのに。

その溝もいつか埋まるんじゃないかと、何の根拠もないのに、楽観的な考えさえ浮かんでくる。

赤の他人だったはずのマヤと速水でさえ、あれだけ気持ちが通じているのだ。血の繋がった自分たちが分かり

合えないはずはない。


(こんなふうに思えるのも、マヤたちのおかげかな……)

マヤには人の心を和ませてくれる力がある。

マヤと麗の同居生活をよく知る者たちは、どんくさいマヤの世話をする麗は大変だとよく口にする。

しかし、それは違っていた。

マヤだけでなく、厳しい現実を抱えていたのは、麗も「劇団つきかげ」のメンバーもみな同じだった。

その中でも、麗とマヤは同じように親に夢を理解してもらえなかったという境遇にあったし、麗は人前で弱音を

吐いたりできる性格ではなかった。

人に頼られれば、苦しい状況でも「任しときな!」と言ってしまう。

誰かに頼りにされるのは望むところだったが、ときに、麗も無理をして疲れてしまうことがあった。

しかし、マヤの世話を焼いて忙しく生活していくことで、厳しい現実を忘れることができた。

また、マヤの演劇に対する情熱に引きずられ、麗も演劇に情熱を捧げることができた。

日々をそれほど辛く感じなかったのは、ひとえにマヤの情熱と能天気気質のおかげだったとも言える。

自分のほうがマヤに頼り、そして救われていたのだ、と麗は思っている。

速水もマヤによって心に潤いを取り戻したのだろう。

そしてマヤも、速水から惜しみない愛情を注がれていくに違いない。この先ずっと……。


(さてと)

玄関で靴を履いて、最後にもう一度だけ二人を振り返る。

(あんたたち、お似合いのカップルだよ。さっさと結婚して、今以上に幸せになって、おこぼれの幸せをあたしにも

おすそ分けしてよね)

(あ、でも、その前に、少し花嫁修業をさせなきゃいけないな。今の状態で嫁に出すのは、あたしのほうが恥ずかしい

からなぁ。……よし、マヤ、覚悟しておきなよ。帰ったら特訓だよ!)


恋人たちに暖かい笑顔を向けてから、麗は静かにアパートの扉を閉めた。



ある朝の出来事だった。









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